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―― 民華 ――
雪が降っている。
中国は上海。魔都といわれる街に。
人々は軒下に躰を隠し出す。それと同時に夜気が街を包み出していく。
人通りがほとんどない裏路地を、大きなリュックを担いだ一人の老人が歩いていた。
リュックには、いくつかの鍋がぶら下がっていた。
からん、からんと、老人――泰が歩く度に、鍋がぶつかり、小さな音をたてている。
そこに、別の音が混じった。
細く、消え入りそうな、赤ん坊の声だった。
泰はそちらの方を見た。
民家の軒下にある焚き付けの上に、大人が一抱えしなくはいけない程の籠があった。声はその中からする。
泰がその中を覗くと、赤ん坊が頼りなく泣いていた。
それがその赤ん坊の親の最後の良心だったのか、赤ん坊は柔らかく、保温性の高い布で包まれていた。
そして、その横に小さなメモが入っていた。
それには、「白 民華」と書かれていた。
ニホン。
コウベにある水陸両用という中華料理屋の昼時は戦場だった。
「いらっしゃーい!」
五歳程の女の子が、大きな前掛けをして、開いた扉に向かってにっこり笑う。
「よう、民華ちゃん。今日も元気かい?」
近所の工場の男達がどやどやと空いている席に座り、民華の頭を撫でる。
「うん、元気だよ。今日は何にしますか?
今日の定食は、鳥のから揚げです」
「んじゃー、それ四つ」
「あーい、じーちゃーん、から揚げ定食四つでーす」
「おうよーっ!!」
民華の声に答えて、カウンターの向こうにある厨房から声がする。
勢いのある火の上の中華鍋からは、踊っているかのように野菜が炒められているのが見える。
「ほい、野菜炒めあがったぞ、民華!!」
「あーい!」
小さな民華はたったかたっと走ると、カウンター横に設えてある踏み台に足をかけ、野菜炒めの入っている皿を手に取り、机の方へと運ぶ。
「お待たせですー」
民華がにっこり笑う。
それまで泰一人でここを切り盛りしていた。人はいいのだが無口な泰だった為、どこか冷たい感じのする店だったが、こうして民華が料理を運ぶようになってからは、随分と店の中が明るくなり、民華の笑顔目当てでやってくる客も増えた。
ハルセ。
市議会の建物の前で、民華は枝で地面に絵を描いていた。
どことはなく、寂しそうな顔をしていた。
「民華」
泰の声に、民華は立ち上がり、そちらを見た。
「なんとかなった。お前、学校に通えるぞ」
民華の表情が明るくなった。
二人はナンコウにいた。
「あたし、ここからニホンにきたんだよね? じーちゃん」
「ああ、そうだ。儂と一緒にな」
「あたし…上海って街で捨てられてたんだよね…」
「そうだ」
「でも…あたし、じーちゃんの子だよね?」
「ああ、そうだ。だから、あの店の跡継ぎとして、厳しくしてる」
「……だったらどうして、あたしが学校入るのに、じーちゃんが苦労しなくちゃいけなかったの?」
「民華は…いつか、大人になるな」
「うん……」
「どちらの国に住むか、自分で選ぶ時がくるかもしれん。その為じゃ」
「……よく…わかんない…」
「わかる時がくるかもしれん」
「………わかん…ないよ……」
民華は泰の手をぎゅっと握り、キラキラと光る海の向こうを見つめた。
民華は高校にあがった。
持ち前の明るい性格の為、友達がたくさん出来た。だけど、その友達は放課後になると、彼女の周りから姿を消す。
その理由は……
「おう」
民華が校門を出ると、壁にもたれかかっている悪司が民華に声をかけた。
「また〜…」
見た目もまともな仕事をしている風でない悪司が、必ず放課後になると民華を向かえにくる為、友達が去っていってしまうのだ。
「今日は、豆大福買ってきたぜ。一緒に食いながら帰ろうや」
「食べ歩きって、行儀悪いよ」
「いーじゃんいーじゃん、それがいいんだって。ほれ、民華さんの分だ」
と、悪司は民華の手の上に強引に豆大福を置いた。
「俺、決めたから」
豆大福を食べながら歩いていると、悪司がポツリと言った。
「徴兵されたから、ちっとウィミィどつきに行ってくるわ」
「なっ……何…それ?」
「あんたと離れているとこで、あんたを守る為に戦う」
「そっ……そんなっ……」
「ショックかい?」
「そりゃ…だっ…だって……」
「だったらよ……俺の願い、きいてくんねーか?」
「な、何…?」
「あんたが欲しい」
「えっ……」
「前から言ってたろ? な…」
「あ、あの、あっ……」
「ん?」
がこーーーーーーーん。
悪司の後頭部にオカモチがクリーンヒットした。
「だーっ!!」
「まだうちの孫に纏わりついてんのか、このヤクザ者が」
オカモチをぶつけたのは、出前帰りの民華の祖父だった。
「じーちゃん!!」
「さあ、帰るぞ、民華」
泰は民華の手を掴むとさっさと自転車の後ろに乗せた。
「あ、待って…あ、や、山本さん……」
自転車は民華の声を聞かぬまま、発進してまった。
キコキコと軽く軋んで自転車が進む。
自転車が神社の前を通りかかった。
「じーちゃん、待って、ちょっとここに寄りたい!」
民華は泰の服を引っ張り、半ば強引に自転車を止めさせた。
そして神社に入り、お守り売り場を目指す。
「これは、友達としてだもん…そんな…そんな気持ちからじゃないもん……」
誰もどうしてそれを買うのかなど聞いていないのに、民華は一人でぶつぶつ言いながら、お守りを手にした。
「何が…あたしを守る為だよ…だったら…だったら、そばにいてくれた方が……」
民華はお守りを手にしながら、ポツリと涙を落とした。
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