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―― 殺 ――
その日は、しとしとと雨が降っていた。
雨はその小さな平家の屋根をぱたんぱたんと叩き、竹で作られた物干しのある、猫の額程の庭も、しっとりと潤していた。
その縁側から、中が見えた。
少女が制服を着たまま、正座をしている。
少女の前には、白木で作られた粗末で小さな机があった。その上には、中年に差し掛かったぐらいの女が薄く微笑んでいる、黒い額に納められた写真と、喉仏の納められた小さな骨壺がひとつ。
少女は一人、無表情のまま、その前に座っていた。
雨の音が、世界を包みこんでいる。
少女の首が、ゆっくり庭の方を向いた。
少女は物干しを見ていた。そこに、洗濯物はかかっていない。
しかし、少女はそこから誰かに自分の名前を呼ばれた時のように、首を巡らせた。
少女の知る日常では、このように雨の降る日は、割烹着を着た母が、慌てて洗濯物を取り込んでいる。
しかし、その母は先程荼毘にふされ、今、自分の目の前の小さな陶器の壺の中だった。
母が洗濯物を慌てて取り来んている姿が、幻のように浮んではすぐ消えた。
「…………」
少女がまばたきをひとつして、立ち上がろうとしたその時だった。
「いやあ、まいった、まいった。酷い雨だ」
と、一人の太った中年男が、少女のいる六畳間に入ってきた。
男はこれみよがしに白いハンカチで喪服についた雨を拭っている。
「大変だったね、殺ちゃん。お母さんがこんな事になってしまって」
殺と呼ばれた少女は、僅かに目を細めただけだった。
「葬儀はもう終わった。今更、何の用だ?」
「そんな冷たい事言わないでよ。おじさん、これでも慌ててたんだから。これでもおじさん、仕事が忙しいんだよ」
その男は、殺の母親が勤めていた缶詰工場の社長だった。
生前、特に用もないのに、夫のいない、しかし娘のある殺の母親を蔑むのではなく、哀れんで、贈り物を持ってきたり、図々しく食事に割り込んできたり、を繰り返していた男だった。
「いやあ、元気なお母さんだったのに……急だったね」
男は殺に断りもなく、殺の前に座りこんだ。
「父無し子を持つ女に、世間は冷たいからな。ご近所はよくしてくれたが、国からの補助もなく、女一人で子供を養わなくてはいかんのだ……母は根をつめすぎた」
「それはボクも気にしていたんたけどねぇ……」
男は僅かに舌なめずりをすると、膝の上に置かれている殺の手の上に手を置いた。
「そう思って、ボクは特別、君のお母さんに目をかけていた訳さ」
「ほほう」
「だからね…君もわかるだろう? もう初潮もきているだろうし……な? 大人のつき合いをわかってくれるなら、ボクがいくらでも便宜を……」
「つまり、貴様の妾になれという訳か」
「まあ、はっきり言えば……殺ちゃん、君は頭がいいねぇ……そういう子、ボク大好き――」
男はそれ以上言葉を続ける事が出来なかった。
男は青ざめていた。
殺の手はいつの間にか、男の股間に伸びていた。正確には、男の睾丸を、スラックスの上から握っていたのだ。
「さっ…殺ちゃん? この手は何かなぁ……君、ひょっとして、そういうサドっ気が、あ、あるのかな? ボ、ボクはそういうのは、ちょっと……」
「貴様が淫心から母につきまとっていた事を、私が気づいておらぬとでも思っていたか?」
殺はそう言って、さらに手に力をこめた。
「ひっ…ひい!!」
「母が死に、荼毘にふされた途端、すぐに私か。貴様、一体どういう考えで、女と接している? 貴様の好きになる手駒か? それともただの、快楽を埋める為の肉の穴か? 答えてみろ」
殺の手首がぐっとひねられた。
「ぐっ…ああああ!!」
「誰が叫べと言った? 私は答えろといったのだ。答えられぬのなら……」
殺の手首がさらにひねられた。男の股間が、酷く歪む。
「そこまでにせい」
それ以上の事になる前に、別の声が割って入った。
殺は無言のまま、手もそのままで、首だけを声の方に巡らせる。
声は庭からした。
先程、母の面影を見た物干しの前だった。
そこには、老人が立っていた。見た目は老人に見えるが、その瞳には、生命力がたぎり、曇ってはいない。
「そこまでにせい。お前が手を汚す価値のない男である事は、お前もわかっているじゃろう?」
「………………」
殺はそこを引き千切るように素早く、力をこめ、手を離した。
「ひぎぃ!!」
男は、驚いた豚のような声をあげ、四つんばいになって殺から離れた。
「男」
老人は静かな、それでいて圧倒的な力のこもった声で言う。
「は、はい!!」
「これは、お前の思うような女ではない。何せワシの血を引いておるからの。いいか、二度目はないぞ」
「は、はいぃぃ!!」
男はそのまま、玄関に向かい、そして派手に転ぶ音をたて、姿を消した。
「あなたの……血だと?」
殺はいぶかしげに声に出した。
「そうじゃ、ワシの血じゃ。その顔……母の面影もありながら、ワシとも似ておるじゃろう?」
老人は柔和に微笑んだ。
「………………」
殺は黙ったまま、老人をじっと見る。
「あれが死んだと聞き、駆けつけた……もう荼毘にふされておったか」
「……ああ……先程、帰ってきたばかりだ」
「お前と母と二人きりか」
「そうだ」
「では……行く宛は?」
「そのようなものはない。ここで一人、暮らしていくつもりだ」
「お前には、ワシ以外に血縁がいる」
「………………」
「どうじゃ? ワシと共にくるか?」
「そこには誰がいる?」
「ワシの孫がおる。お前にとっては、甥じゃな。アレはこれから、苦難が待っておる……お前がそばにいれば、あやつの苦難も、軽減されるじゃろう」
「私には、その価値があるというのか?」
「ああ。今のやりとりだけではなく、その目がすべてを物語っておる」
「私は、あなたの名前も知らぬのだが」
「ワシか? ワシは一発。山本一発。お前の母が唯一愛した男じゃ、殺」
「……私の名前を……」
「知っていて当然じゃ。ワシがつけたのじゃからな。お前の母は、その名前とお前という子を連れ、ワシの前から姿を消した。子供が出来た事で、ワシに負担をかけると思うてか……」
「…………母上……」
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「さあ、どうする? この手を取るか、取らぬか。自分で決めてみせい」
一発は殺に手を伸ばした。
殺はそれをじっと見つめ。
そして……
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