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―― 麻美 ――
正和三十四年十月六日
午前八時三十二分 市議会更衣室
今でも信じられない。
私は、戦後になって市議会の採用試験を通ったばかりの新米職員でしかないのに──それがまさか、いきなり地域管理組合の監督官だなんて大きな仕事を任されるなんて。
昨日は緊張してよく眠れなかった。
でも、頭は冴えている。
物事は何でも初めが肝心。監督官になった最初の一日目、全力で仕事に取り組もうと思う。悔いのないように。
さあ、早く制服に着替えよう。
「……あれ? あ〜ごっめーん、間違えちゃった。男子更衣室ってあっち……あ、君って山沢さんでしょ、山沢麻美。僕は鴉葉月。僕の方が数ヶ月だけ先輩になるんだよ、仲良くしようね。……えっ、どうして名前知ってるかって? へへ、ナイショ。……ああ、大丈夫だよ、僕は何も見てない。パステルグリーンのブラとショーツに包まれたナイスバディなんてぜんっぜん見てないって。それじゃ麻美ちゃん、またね〜!」
なっ──何よ、あの人は! あんな軽い人が同じ監督官だなんて!
い、いえ、怒るのはまだ早い。曲がりなりにもあの人は監督官だもの、きっとあの人の胸の中にも、真っ直ぐな心があるに違いないんだから。
午前九時五分 地域管理組合監督課
朝礼も終わったし、いざ仕事開始。
まずは前任の監督官から仕事の引き継ぎだ。
「……はい、このファイルで全部。じゃあ頑張ってね、山沢さん」
引き継ぎは十秒で終わった。受け取ったファイルも三分あれば目を通せる。
これは一体どういうこと?
もしかして、一から十まで全部自分で苦労して仕事を覚えろ、ということ?
「そーんな訳ないじゃんか。ホントにそれだけしか仕事がないってことだよ、安
心しなって麻美ちゃん」
鴉葉さんが向かいの席で笑っている。
「とりあえず席に座りなよ。どうせ書類が回ってくるまではヒマなんだからさ。あ、お茶飲む? 僕が淹れてこようか?一息つこうよ」
「結構です」
「嫌われちゃったもんだな〜。ねえ麻美ちゃん、僕、何か君に嫌われるようなことでもしたかな?」
「何もしてないから問題なんです。大体、今って始業して間もないんですよ? いきなりお茶淹れて一息つくなんて変じゃないですか?」
「そんなこと言っても仕事ないしなあ。まあいいや、とりあえずお茶にしよっと」
鴉葉さんは席を立ち、それきり戻って来なかった。
結局、地域管理組合監督課には、私一人が取り残されてしまった。
午前十時十一分 市議会/資料室
「あった……監督官の執務マニュアル!」
私は戦前に作られたらしい唯一無二のファイルを見つけて思わず声を上げた。
資料室で大声を出すのはマナー違反だと思って、慌てて口を噤んだけれど──。
誰もいない資料室では、私の声だけが虚しく反響していた。
とにかく、誰も教えてくれないのなら、自分で仕事を勉強するしかない。
私はノートを開いて、マニュアルの要点を抜粋し始めた。
正午 ハルセ市街
資料室を離れ、昼食を摂りに外へ出た。
勉強の甲斐あって、監督官の仕事が大体解ってきた。
大まかに言って監督官には三つの仕事がある。一つめは担当している地域管理組合が利権のみで動くことがないよう監視すること、二つめは担当している管理組合の担当地域を把握し独自にパトロールすること、そして市民からの苦情や通報を受けて地域管理組合に連絡し、場合によっては地域管理組合と協力し事件の解決にあたること。
「とりあえず席に座れ、って……。一応、鴉葉さんの言っていたことは間違いじゃなかったけど……」
呟いて、私は溜息を吐く。
マニュアルによると、地域管理組合の監視方法は、いくつかの例を除いて基本的に監督官個々の裁量に任されていた。これはある意味当然だと思う。地域管理組合は民間組織、その形態も千差万別。そこに関わる監督官も、それぞれ個々の組合に合わせた対応が求められるからだ。
だが、この裏を返せば──その、組合と連絡がつくのは夜だけだと仮定すると、監督官は勤務時間中に組合と接触できず、監視することも不可能になる。
先輩方の資料を見る限り、ほとんどが夜に監督官の自宅の方へ連絡があり、ここで仕事が済んでいることになっていた。
疑うのは良くないけれど、本当にこれ、きちんと仕事が済んでいるのだろうか。
そして、もう一つの仕事のパトロール。このスケジュールも監督官個々の裁量に任されている。
「あの地域は治安が良好なので、一年に一回程度パトロールすれば足りるんです」
と言えば終わってしまう。
唯一サボれないのが、市民からの苦情と通報による対応のみ。
まさかとは思うけれど、私の前任だった監督官も、鴉葉さんも、みんな──。
何だか目眩がした。
午後二時 センリ/わかめ組
仕事の内容も大体解ってきたので、私が監督することになる地域管理組合を訪れてみた。
大事な仕事だと思って、襟を正して臨んだのだけれど。
「今、少し立て込んでおりまして……。後日またお伺い下さい」
男の人が出てきて、私に封筒を差し出した。まるで厄介払いでもするような態度だった。少し気分が悪い。
でも、この封筒は何だろう? 報告書? 書類? 回覧? ずいぶん分厚いけれど。
午後四時半 地域管理組合監督課
センリやフナイ、クロモン、ナンコウなど、わかめ組の管理地域を見回って戻ってくると、もう終業三十分前だった。
「急いで書類を片付けなきゃ……」
思って、わかめ組で貰った封筒を開けたら──。
「な、何これ……札束が……」
書類と一緒に大量の札束が出てきた。
きっと、私に渡す封筒を間違えたに違いない。明日もう一度行って、今日会えなかった責任者の市橋蘭さんに直接お返ししよう。
午後五時十分 市議会 更衣室
何だか、今日は疲れた。
きちんと仕事ができたのか、それともできなかったのか、全く解らない。
ただ気ばかりが焦って、疲れた。
明日はもっと、しっかりしないと。
「……あれ? あ〜ごっめーん、間違えちゃった。男子更衣室ってあっちだよね、ごめんごめん。……あれ? 山沢さんじゃない、奇遇だね〜。一緒に夕食でもどう? 奢る奢る、奢っちゃうよ。君の歓迎パーティってことで、ね? へっ、メンツ? 当然、僕と君の二人きり!」
嫌です。絶対嫌です。
「ちぇ、残念。じゃあ予定通りさよりちゃんと遊ぼうか。……じゃまた明日〜」
今、心に決めた。
私は鴉葉さんみたいにはならない。
私は監督官として、私が正しいと思う事を貫き通す。絶対に。
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